多発性骨髄腫と家族

多発性骨髄腫の治療記録。 最近、治療の当本人である主人もブログを始めました。 こちら➡︎ https://ken-ken-ken.muragon.com

多発性骨髄腫について
治療、症状、患者家族として
残せるものを置いていきます。


2012年8月=主人37歳
多発性骨髄腫と診断
治療開始
2013年
治療→自家移植→
同種移植→寛解
2014年
寛解維持
2015年12月
再発
2016年1月
治療再開
2019年9月
永眠しました

介護福祉士
娘二人の母親してます。

初期:3コース目前-末梢血幹細胞採取-

治療記事に、3コース目を書く予定でいましたが
その前に
末梢血幹細胞採取を行っていたのを思いだして
資料を見たところ、ありました(;一_一)


この治療は後に行う
【自家移植】で使用するために末梢血幹細胞を採取します。


今後の治療として、
大量の抗がん剤を使用して、全身にある癌細胞をたたく=眠らせる
治療を行います。
この時、悪いものを壊すと同時に身体にとって良いものも壊れてしまいます。


---------------------------------------
医師より説明:
非常に強力な化学療法をするので血球の回復がそのままだと遅く、
感染症になりやすい。
すると感染症により命を落とす危険が高くなる。
早く血球回復をしないと危ない。


この治療によって、自身の血球を早く回復させるため
予め抗がん剤治療をしてきれいになった細胞を採取しておき、
強力な抗がん剤治療をした後に採取した細胞を身体に戻すという
方法を用いる。


また、自家移植は自分の細胞なので血球さえ増えてしまえば
ひと段落して感染症による命の危険が減る。
この血球が増えるまでの経過が重要となる。


自家移植による治療関連死は3%前後なので、
危険度は高くない。
寛解の希望値は40%前後=この中に入ると全生存率は35%くらい。


自分で出来るケア
手洗い・口腔ケア
これは今後ずっと続けていく、重要。


自家移植後に骨髄バンクへの登録、準備をする。



---------------------------------------




末梢血幹細胞採取 入院中検査データ




末梢血幹細胞採取 治療スケジュール


末梢血幹細胞採取 治療スケジュール



次回は自家移植までの化学療法

普通の日記5

こんにちは、
病気の記事を書きだして途中なのですが
いつもコメントくださっていた〇〇ダム様のコメント欄がなくなっていて、
直接お話しできなかったので
この場をお借りしてm(__)m


お名前を念のために一部伏字にしてますが、
大丈夫でしょうか(;一_一)


もし何かありましたら、コメント頂けますと幸いです。
私もコメント無しにしようかなって思い始めてます。



〇〇ダム様
8月26日のコメント、ありがとうございました。
バセドウ病とわかるまでに八カ月程かかり、
うつ病と診断されてお薬を飲んだり、
若年性更年期障害と婦人科で診断され漢方を何種類も飲んだり。
〇〇ダム様の仰る通り、一番きつかったのは大量の汗をかくことと、
それによる全身の異常な倦怠感、動悸でした。
主人は幸い一時的かもしれませんが、現在は様子観察で加療もなく
体調は落ち着いています。
治療まっただ中ではなかったのもタイミングとしては本当に良かったです。
今は急性的に悪化していた動悸を治すのに狭心症のお薬を一カ月半飲み、
穏やかではありますが落ち着いてきました。
共倒れ。これを一番避けなければなりません。
〇〇ダム様のお身体が心配です。
どうかご無理なさらず、ゆっくりゆっくりお過ごしください。


お返事遅くなりました!
本当にありがとうございました!!

普通の日記4

ご無沙汰しておりました!!



前回記事を書いてから二カ月半も経ってました(;一_一)
バセドウの症状がひどく出て、
まさかの主人と同じ医大へ転院し
買い物一つ一人では行けないほど狭心症の症状が出る始末。
娘が二人とも家事に積極的に取り組んでくれたので
無事短期間で【身体動かしすぎです数値=FT3が9→3】へ減少。
甲状腺刺激ホルモン(TSH)は相変わらず0.000と低下していますが、
異常な発汗と動悸が減っただけで死にそうに感じる事はなくなりました。


で、不運は重なるもので先日試験会場へ向かう主人を送り届けたあと
次女と買い物へ行く途中(一人での買い物が許可されておらず常に次女が付き添ってくれています)
赤信号を見落としていました!の車にスピードを出したままの状態で追突されあちこち打撲。
私側は完全に青信号になり、周囲の確認をしてから走り出していて。
過失はゼロでした。
一か月が経とうとしている今、神経の痛みどめの注射をしてもらい
日常生活での動きもヒョコヒョコ動きが減ってきた感じです。
次女もカラーを巻き、高校生活最後の体育大会に出られず
かわいそうなことをしました。



普段から安全運転に努めていたので、
こうしてても事故は起きるという話を警察の方としました。
また、次女にも私の症状を伝えてあったり、同乗している時に事故が起きたら・・と話をしていたので
事故当時、冷静に私への声かけをしてくれたり連絡をしていました。
『ママ!ゆっくり呼吸して!深呼吸だよ!』『苦しいところない?』
加害者へ『母は心臓が悪いんです!早く救急車を』
と、次から次へとテキパキ動ける娘、かっこよかった。


救急車で病院に運ばれストレッチャーに乗った私は、
救急センター内にいたのですが
軽傷だったので病院の廊下で待機していました。
その時初めて涙がこぼれてきたと後になって話していました。
次女はキリっと私を案じてくれていたのですが、
やはり内心は凄くこわかったと思います。


次女のおかげで、私は酷い状態になることもなく、
歩いて救急搬送先から帰る事が出来ました。
本当に頼りになります。
車も廃車になりましたが同等の車を補償してもらえました。


思い入れには金額がつかないと保険屋さんが仰ってましたが、
そこまで求めたところでどうにもなりません。
それよりも
次女の学校や高校生活最後のイベントへの悲しみのほうが私にとっては大きいです。
私の体調さえよかったら・・と何度も考えましたが、
次女は、そんなふうには絶対考えないで?ママを守れたならそれでいい、と。
んー、本当に良い娘に成長してくれました。




とまぁ、今年はいろい災難がかさなりましたが
これも辛抱の時期と踏ん張ります。


病気関連の記事を少しずつすすめていきます。
今後ともこちらでお世話になりますm(__)m