多発性骨髄腫と家族

多発性骨髄腫について
治療、症状、患者家族として
残せるものを置いていきます。


2012年8月=主人37歳
多発性骨髄腫と診断
治療開始
2013年
治療→自家移植→
同種移植→寛解
2014年
寛解維持
2015年12月
再発
2016年1月
治療再開

介護福祉士
娘二人の母親してます。

主人二つ目の誕生日!(^^)!

ポンポンポポン!
と記事が連投になります(笑)




今日は主人にとって二つ目の誕生日です。
ドナー様へ感謝をする日でもあります。



病気を発症して五年、移植をしてから丸四年になりました。


順調に治療が進んでいるか、と聞かれれば
医師から
『移植は失敗でした』と言われてる時点で
ハッキリ
『はい!』とは答えられないかもしれません。



でも、移植をしていなければ
今の生活はなかったように思います。



最初に病気が疑われて医大への紹介状を頂き、
PET検査を受けて病名が確定した時
初診時の医師が言いました。
『あと一週間遅かったら命に関わっていた』と。



実際のところ、何が一番いい方法だったのか、
どの治療をすることが正解なのか、
何をすれば正しかったのか、
そこに答えはありません。



ただ言えることは、
様々な治療や投薬をしてきたことで、
主人が主人として活きられる、過ごせる時間が増えたことは
間違いないことです。



今もなお、多発性骨髄腫を治療するにあたり
自家移植からの同種移植例は少ないのが現状です。
発症年齢として60代以上の方が多くみられるこの病気には、
年齢によって選択出来ない治療があります。


だからこそ、担当医であるM先生は
日常生活が健常者に近い状態で過ごせる日を一日でも多く
過ごしてもらいたいと強い想いをもって治療の選択をしてきてくれました。



まだこれから治療は続きます。
現状では毎朝仕事へ行くのがキツイほどの体調の中、
出勤している状態の主人です。


今後の記事でまたアップしていくことになりますが、
現在の投薬を変更していかなければならないかもしれない
そんな状況ではありますが


私は私ができることを。
主人が少しでも過ごしやすく居心地のいい時間を、
私の一日、一日も大事に
一緒に過ごして作りだしていきたいと思います。




((+_+))


娘に言われて改めて知ったのですが、
主人『うしじまくん』というのに出演されていたときの
山田孝之さんに凄く似てます。


で、最近は山田孝之さん大好きです(笑)


その話を娘にすると、
『ママ本当にお父さん大好きだよね!(^^)!』
と言ってくれて、嬉し恥ずかし大喜びした母でした。



今日も暑い一日になってますが、
みなさん熱中症に気をつけて穏やかな一週間の始まりを
お過ごしください☆

初期:同種移植後 day1~



同種移植についての説明書から
残せそうなものを書いてきましたが、
ここからは移植後の経過を残していきます。


四年前のことなので、当時の手帳をみつつ
わかる範囲でとなります。



移植当日の状態は一つ記事に残してるので、
翌日以降についてです。




day1
移植の翌日です。
12時間が経過した朝~昼頃までは大きな変調もなく、
少量ながら食事も摂取できる。


15時頃より目の奥の痛みが激しく出てきて目を開けていられない。
先生診察。本人の希望で濡れタオルを用意。タオルの熱湯消毒をして、マメに洗いタオル交換。
(ハンドタオルのサイズを大量に用意。)
夜は顔面の痛みでほぼ会話も出来ず、痛み止め等で対応して寝る時間を増やす。


day2~day3
痛み変わらず、食欲もない。
38度台の熱も続き、ほぼ目を閉じて過ごす。
意識もぼーっとしている状態が続く。


day4
顔面、特に目の奥、高熱も続いてる為に関節の痛みも訴えあり。
ここ数日は痛みと熱で唸る様子が見られる。


day5
高熱が続いて五日目、38~39度の熱。顔面の痛みも変わらず。
夕方急遽CT検査へ。結果は異常なし。顔面の痛みは血圧上昇によるものだろうとの説明。
頸部挿入しているCV周辺の色が気になる、看護師へ伝える。
炎症が起きているのではないか・・不安。


day6
昨日に比べて少し楽な様子。結局、CVは炎症を起こしていた為、栄養点滴はずす。
二日前からCV周辺の色が気になると看護師にも医師にも伝えていたので、
このせいで苦しい思いをしたのではないか?と考えてしまった。が、CVを抜くときつくても食事を摂らないといけなくなるので可能な限り挿入しておきたいモノだそう。
レトルト、個装パックのものを食べる。ウィダインゼリー等。
口内炎が一つ出来る。味覚障害が出ていて味はほぼ感じないとのこと。


day7
意識がぼーっとしていた3~4日前に比べると、落ち着いてきているとのこと。
相変わらず顔面の痛みと頭痛の訴えあり。痛み止め(カロナール)にて対処。
食事を摂りたくない、摂る気力がない、苦痛である、と医師へ訴え。


day8
CVを反対側の頸部に挿入。M先生がすんなりと処置してくださる。
『食べなければいけない』という状況がなくなっただけで、精神的負担は軽減されたと思う。
食事摂取量を聞かれるたびに憂鬱な表情になっていた為。可能な対処が出来たことで、一歩前進と思いたい。
目の奥の痛みはここ数日の中で一番落ち着いてるとの話。これもまた前進。


day9
一週間が過ぎて、今日が一番調子がいい様子。精神的にも安定している。


医師より説明があり。
今後、生着前に一度熱が出たり血球が増えるときに腰痛が出てくると話がある。
その“ひとやま”を越えれば生着目前になります。もう少しの踏ん張りです。


day10
午前より貧血があり、体調やや下降気味。ぼーっと過ごす時間が多い。
主人の両親が面会に来るもしんどさでほぼ目も開けられず、会話も出来ない。
お母さんが不安になっているので、現状と今後の治療計画や安心材料を見つけて話をする。
両親のフォローも大事。


day11
高熱、全身の倦怠感、口内炎、下痢、肛門周辺のただれ、CV挿入部の痛みに苦しい一日。
身体を拭いて気分転換をしたり、座薬を入れて肛門周辺の清潔を維持したり、
看護師にはしてもらいたくないという主人の要望で一日病室で対応する。
私のため息が多い、表情が暗い、態度が悪いと言われる。
病室でて深呼吸。それだけの言葉が出てるだけでも良しとする、と思うようにする(苦笑)
面会室で息抜きしながら頭抱えてたら看護師が気づいて声をかけてくださる。
思わず泣けてきた。主人が一番しんどい闘いをしているんだと言い聞かせる。
看護師が『奥さんの献身的な看病は病棟でも感心してるんですよ、大丈夫、息抜きしてね』と言ってもらい、踏ん張り直す。まだまだこれから、頑張ろう、と。




ここまでが移植翌日から11日目までの流れです。


ドナー様の細胞を主人の身体へ入れた後、主人の身体の様々な組織へジワリジワリと浸透していき、やがて主人の細胞がドナー様の細胞に入れ替わるまで(生着)体内で細胞の戦いが起こります。
ドナー様の細胞は主人の中に残っている、生まれてこようとする細胞を見つけてはたたき、主人自身の細胞は侵入者であるドナー様の細胞を壊そうとする、そこで発熱等の不調が出るようです。
後に、主治医であるM先生が言いました。
『○○さんの細胞、しぶといな~強いわ(笑)』って(-_-)


多発性骨髄腫による同種移植で一番懸念されるのは、
移植関連死の確率が高いことだと移植前の説明で仰っていました。
成功確率は三割程度、ここを抜ければ長期の予後が期待できる、と。


この後も、苦しい副作用と感染症にツライ時期は続きます。



次回の初期記事も、引き続き、移植後の状態です。





いろいろ乗り越えること。

主人の初期治療前にササッとこの記事を埋め込みます。



『ふつーのお話。』
の、前記事に大好きなブロガーさんがこうコメントをしてくれました。



【神様は越えられない試練は与えません。
だから大変な出来事が来る人は「試練を乗り越えられる人」
と神様が見込んだ魂のレベルの高い人。】
なのだと。


そして
【将来若しくは来世は幸せいっぱいです】とも言ってくださって。



今の私も、過去の私もいろんなことがあるけど、
愛する大切な子供と主人が居てくれて幸せだって
心から言える。










私のこれまでの人生はいわゆる順風満帆なものではなくて
何度も逃げ出したいと思うデキゴトが転がっているものでした。



父は五歳の時に他界。父の記憶はうっすら場面だけが思いだせる程度。
それでも愛しさは残っています。


母は父の他界後数年間、昼夜私たちを育てるために仕事をして
身体と心を壊して完全に仕事をしなくなり、親戚のつてで全然知らない土地へ引越。


その親戚=母の義理の兄と母は恋仲になり、その義兄の家庭は崩壊、離婚。
親戚からは白い目で見られるようになり絶縁状態に。
“その人”は自然と我が家に住みつくようになり子供の眼も気にせず
母と男女の関係を持つようになり。


私は10歳の時から“その人”の性の玩具として扱われるようになり、
売り物にされてボロボロになりました。
その行為がナニをしているのかわかった頃には妊娠して、14歳を前にして中絶。その間に、12歳離れた妹が生まれて、うちの中はグチャグチャ。


でも。
妹が可愛くて仕方なくて育児放棄していた母に代って私が育てました。



母は見て見ぬふりをしていたように思うけど知っていたのかどうか、
わからないし、今はもう何も考えていません。


家は生活保護を受けていたけど酷い生活状態で夜な夜な無人販売で野菜を置いてある場所を自転車で回って野菜を集めて回っていた。
電気も止まる、水も出ない、そんなのザラな生活でした。


それから母の知人の勧め?母の要望で
14歳の時パーティーコンパンニオンの仕事をするようになった私は
月に50万近く稼ぐようになり全部生活費に。
その頃やっと“その人”は家に出入りしなくなり母との関係を終わらせた。
母や私たちへの暴力が凄まじいものでした。
一回り離れた可愛い妹にふつうの生活をさせたくて、しっかりご飯食べさせたくて、必死に働きました。


学校なんか行けるわけもなくて、学力も知識も何にもなかったけど
生きていけるって、何の根拠もなく信じてた。



それからもいろんな事があった。
良いことよりも悪いことの方が格段に多かったと、思う。


それでも私は今生きていて、今を幸せだと思う。




自分の経験が誰かの何かに役立つのであれば・・、
そう思って救えた命もあれば、どうしても守り切れずに見送った命もある。


ひとりひとりの力は微力かもしれないけど、
何もしないよりは良いと今でも思う。



私はいま主人と子供を守ることで精いっぱいだけど、
それは私が動けることが最低条件であって、
私自身が自分で起き上がって立ち上がって一歩ずつ一歩ずつ進まないと
成り立たない。



悲しみに浸ることも、後悔することも、大切だと思う。
それでも生きて動いて歩むことが出来る人にしか出来ないことに
眼を向けないといけないんだと、私は思う。



悲しみは人を強くすると、
後悔は繰り返さないようにすればいいと、
そうして一つずつ学んでいくしかないんだと、そう思う。




自分以外の人が見れば
そんなことで?それだけで?と些細なことだろうと思う事でも
当人にとっては大きな問題であることもあって
何の目盛もないことばかり。


それは悲しいことでも嬉しいことでも幸せであっても言えることで
どう感じられて、どう受け止められて、どう思えるか、
そういうモノなんだと思う。



私は不幸だ、私はかわいそうだ、私はダメだ、私は生きてる意味がない。
底なんてない思考にはいくらでも堕ちることが出来てしまう。


けれど、そこから抜け出すのも、そうでない状況に出来るのも
自分自身にしか出来ないことなんだと思う。




【思う】という言葉で、私はこう思うのです、
という表現の仕方で表現する方法しか私には出来ません。
私は専門家でもないし、何をもっているわけでもないし、
これまでに想い、行動して、考えて、知ってる中でしか話が出来ないから。




唯一、ここまで生きてきた中で言えることは
『自分自身の始まり』
生まれてくること、生まれてくる場所を
自分自身では選べないこと。


そして
『自分自身の終わり』
命の終わりが、自分の意思で選択しない限り
いつなのか、どういうふうになのか、どこなのかわからないこと。



それは数分後かもしれないし明日かもしれないし
驚くぐらい先なのかもしれない。




だから、特別でなくてもいいけれど、
大切に過ごしたいなと、朝目覚めたときに思います。
頭で描いている通りに過ごせなくても、
いってらっしゃいって送り出せて、
その姿が今日見られた事に良かったなって思えて
そんな日常の積み重ねで幸せを見いだせるのかなって、今日も思います。



いま、思いっきり喉風邪ひいてて、、
持病に加えて鼻水やら痰やら咳で苦しいなぁと立ち止まる時間も多いけど
家族にうつさないように必死です(苦笑)


私の感じてる『苦しい』を誰にも感じてほしくない、その一心です。




押しつけも、誰かを否定してるわけでもない記事です。
私の、私が頑張るための、頑張れてるなって思うための
メモ書きみたいな記事です(-_-)



今日、明日、半年後、何年後
どうなってるのかわからないけど


私が在るうちは
生きて、活きてる一日を過ごせていけたらいいなって
そう思うイマでした。





おしまい。


※この『おしまい』は一回り離れた妹の4歳なりたての姪っ子ちゃんの口癖です!(^^)!
いろんなお遊戯?踊りや歌を妹が動画で送ってくれるんですが、必ずやり切った後に『おしまい!(笑顔)』と締めくくってます。可愛すぎて本当にデレデレになります(笑)